昭和五十七年九月三日朝の御理解
御理解第七節
天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやことな し。はやることなければ終りもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。
昨日、松本先生が送って下さった御本を御礼を差し上げなければいけないからどういう 御本か内容を少しは知っておかなければいけないと思って、ところどころ、ま、何と申しましょうか障りのところだけを読んでもらいましたが、なかなか文章家であると同時に、非常に深いもの、一行読んでもらっては一行尋ねなきゃ意味がわからんとう難しい御本でございました。いわゆる、あのう腹芸の論理という御本です。
その中にこういう事が書いてありました。例えば、良い事をすれば良い報いがあり、悪 い事をすれば悪い報いがある。いうならば天地は照覧したもうておるというような事を言うけれども、これは天地に対する甘えだと指摘されております。道徳的な表現でいうとそういう事を申しますよね。それがまんざら嘘じゃないけれども、本当にそういう例えば、どういう目にあってもいわば、日本にもそんな言葉がありますよね。正直な頭に神宿る、とかね。そういうなら、ところが教祖様はね、いかに正直者じゃ仏様のような人じゃというても、次、もへんぴな事が起こると言っておられます。信心しておかげを受けるというのは別物じゃとおしゃっておられます。
なら人間を善導しよう良く導こうとする為には、今のようなね天地が照覧したもうね、 先だってからも頂きます『姿勢天に通じる』ね。ところが、なら本当に今言う仏様のような人じゃ正直者じゃというような人でも、天に通じない証拠に一生気の毒な生涯で終るという事になってしまう。だから、それを指摘しておられるわけでしょうね。そういう思い方や言い方はね、天地に対する甘えだと言っておられますね。
私はそれを聞きながらね、金光教の信心を今日の御理解じゃ天地日月の心になること肝 要だというような、いわば天地の心を極め、天地の心を行の上に現わし生活の中に頂いて行くという事になると私が言うようにね。信心とは、神様が見ておいで聞いておいでの世界に生き抜く事だと言ってます。
大体同じ様なことですけど、私のは違うんです。神様は見ておいでなんだ、聞いておい でなんだね。だから、そこにはいうならばいわゆる神様が見ておる、ね。しっかり信心の帯びをせよとおっしゃるようなね、ですからいわゆるおかげに繋がってくるわけです。ですから、ま道徳が悪いというのじゃありません。けれども合楽で教祖金光大神が説かれておるところは、結局その道徳を越えたものです。ですから本当に、姿勢天に通ずるのです。その真、真心は天に通ずるのです。
幹三郎の病気の時にああして奇跡的なおかげを受けたと、それがもう十年になりましょ うかの。今日、本当に皆さんの真、真心で勢信心のおかげで、また私としても教祖のみ教えを身に着けておかなければこういう心の状態にはなれまいと思うように、いうなら「ままよ」という心、今日は死んでもままよの事でというような心の状態でお取次さしてもらい、また信者、沢山な方がその事を祈り、あれこそが本当の姿勢であっただろうね。という事をそん時にこれもう一ケ月も前でしたかね。御理解頂いたように、湖の水が竜巻状態になって天に昇っていく所を頂いた。本当に、皆さんの姿勢が天に通じたのであるね。
だから合楽でいわれる姿勢、合楽でいわれる真これをもってするから、どんな場合であ っても、人が泥棒といおうが乞食じゃといおうがね、神が見ておるという事になるのです。だから、その乞食してもよい泥棒してもよいというのじゃないです。自分自身に乞食しておらねばよい、泥棒しておらなければよいのであってね、そこに、たとえそういう事であっても神が見ておると仰せられる、そこんところを私共が頂いていく。
それは決して慰めの言葉でもなからなければ、松本先生が言われるように甘えでもない のです。そういう所を、ここに三日間余り、三日間でしたか居られる間に、ここの親先生のお話は腹芸以上の腹芸だと言われた所は、そういう所じゃなかったかと思うんです。そういう所をわずかの間に見抜かれたというか喝破されたというような感じがいたします。そして、合楽で言われる天地のリズムというような事が実際に、なら合楽精神をもって行けば、現在、韓国と日本との関係がああいう険悪な状態にありますね。そういう中に、一人で旅行されて合楽精神でまいりましたら、至る所で知人に巡り合って無事に成功を収める事が出来たという事になってるんですね。
合楽の場合、いわゆる合楽精神をもってするならばですね、必ず天に通ずるのです。た だ合楽の信心というかね、お道の信心以外の考え方で神様が見てござるから、天地が知ってござるからというのは、それは天地に対する甘えだというわけ。その辺の私は喝破は見事だと思いましたね。大きいと言えば天地ほど大きいものはありません。もう限りない美しいね、潔い、またはそれこそ大地の心であってね、黙って受けて受けて受け抜くという事がです、そんならば天地の中にはね、どういう事でも黙って応用に受けるだけじゃないのですよね。
その証拠に、いわゆる天災というのがあるでしょうが、ね。私が四年半の信心を黙って 受けて受けて受け抜いた。ところが神様は、それは、あまりもの信心じゃと指摘されておられます。そしてこれからは、例えばあのホウレンソウの御理解ですよね。何もかも頂くといって、ヒゲも赤い枯れた葉も泥の付いたまま頂くというのじゃない。食べられんところは摘み切ってしまえとおしゃっておられる。天地にはその摘み切ってしまえというところがあるんですね。
だから、摘み切られちゃならんのですね。ただね、天地ほど大きいものはないが、その 大きな心に、大きな心の中にはですね、今申しますように、天災地変といったような働きがあるところを見てもです、ただ黙って受けて受けてというだけじゃないという事がわかりますよね。その辺の見極めなんです。
ここでも、修行させて頂く人達でもね、どげなとでん黙って受けて行くという事じゃあ りません。いけんとはすぐ摘み切らなければならんね。それが、天の心なんです。
まあ、松本先生のその説ではないですけれどもね。信心がなくて、また道徳的な考え方 からこんな目にあいよるけれども、神様がちゃんと照覧したもうておられるからいつかはきっと良い事があるだろう、いつかは報いられるだろうと一生それで終るという人が沢山ある。だから、そういう事はない、それは天地に対する甘えだと、こ、いい切っておられますですね。
ところが、なら合楽のご信心でいうとなるほど姿勢天に通ずるであり、まず神様が見て おる中の修行ですからそれこそ地上の物が天に舞い上がって行くようなね、天地を一つにするような働きが受けられる。必ず、いわば合楽的姿勢と申しましょうかね、真心というものは天に通ずるのです。
いよいよもって天地の心を心とする生き方、それでといってね、もうなあにもなかった り薬にもならん毒にもならんといったようなものならば、摘み切っていくより外に仕方がない。そうする事が本当、それが天地の心なんだ、ね。
天地日月の心の中にはね、信心を抜きにした同じ表現でも思い方でもね、いうなら姿勢 天に通ずる、と、生き方でいったら一生清貧に甘んじなければ、清貧というかね、ま、難儀で終らなければならないですけれどもね。合楽精神をもってすれば、必ず、天地が動いて下さるような働きを身近に感じながら、リズムに乗った生き方が出来るというわけでありますね。 「どうぞ」